コミュ力なるもの

「私はコミュ障だ。」「私も…。」「ごめん、俺コミュ力高いんだわ。」

コミュ力がコミュニケーション能力の略だというのはすぐに分かることだけれど、そのコミュニケーション能力とは一体どんなものなのか?

根本的に会話が成り立たないのがコミュ障だと思っている。コミュ障と言っていて実際は「人見知りする」ぐらいの意味であることが多いように思う。人見知りする人も打ち解けたら会話ができるのだからコミュ障ではない。

コミュ力が高い、というのも「ひたすらずっと喋れる」イメージだったりするけど、「聞き上手」な人はコミュ力が高いなと思う人達だ。相槌を打ち、相手が更に饒舌になるような返しをする。

 数年前、「日本ではクジラとイルカを食べる文化がある。」とSNSに投稿したところ、外国人から返信があった。「賢くて可愛いクジラを食べるなんてけしからん!」と結構な剣幕だった。

最初からして論点がずれているのですねw それでも糸口を掴もうと「クジラやイルカを食べないにしても牛や豚、鳥は食べるでしょ」といったことを投げかけたら「いや、私は菜食主義者だ」と。この返信を見た瞬間こちらは議論をするのを諦めた。

自称コミュ力が高い人からすると、その外国人は「議論に勝った!コミュ力が高い!」となるのかな。

「こんな可愛いクジラを食べるなんてかわいそう」と感情論で反論し、後出しで「私はベジタリアンだ」と言ってこちらの言っていることをすり合わせる気がさらさらなかった。

言い合って勝つことがコミュ力が高いわけではない。それだと声の大きい人は常に正しいということになる。「こういう考えがあるのか」、と納得したりすることがゴールであって、勝ち負けは付かなくて良いのだ。

顔を突き合わせて話す状況だったら違ってくるのかもしれない。ネット上はいきなりこうやって凸撃してくる人もいる。リアルのコミュニケーションに必要な「間」がないのは致し方ないことなのか。

コミュ力は会話のキャッチボールができる人は皆備わっているのではないかな。高い低いは話術とか引き出しとかまた別のスキルによって左右されてくるけど、土台としては普通に問題ないレベルに達している人が殆どなのでは?

コミュ力なるものは人類が地球上に存在する限りは永遠に終わらないテーマなのだろう。